Cro.netの住人、徒然なる日々
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中学校の頃、なぜかうちの学年は夏目漱石の「こころ」を第三章。先生の手紙、しかもその三章もラストのラスト、母親に娘をくださいと言った、あの後のシーンだけで終わらしてしまった。なぜかそこの部分だけ教科書に載っており、先生が(*注 ここの先生は学校の先生を指す)面倒臭かったのか時間が無かったのか、理由は定かでは無いが、教科書のその部分だけで「こころ」を終わらしてしまった。というわけで兎にも角にも、僕は多くの人が経験した、古本屋を何周もしているであろうボロボロの「こころ」を授業のために購入し、そしてまた次の世代のためへと授業の終了とともに自分の勲章という汚れを増やした状態で古本屋へ投げ返す、あの一連の作業を行わなかった。それだけでなく、中途半端に読んでしまったせいで、ダビンチ・コートの鍵は林檎というシーンだけを見せられたような、「犯人はヤス!!」というネタだけを知っている名前の出てこないファミコンゲームのような、曖昧なネタばれのせいで面白いのかつまらないのか判断できず、かといっていざ知ろうにも、最後だけを知っているせいで、最初から順序立てて追う気になれない、再読には最も遠いであろう、ひどく宙ぶらりんな状態になってしまったのだ。
そして月日は流れ、本を読まなかった私は高校で知り合った友人の影響でラノベという世界を知り、青春そっちのけで読書にハマる日々、否、読書を通してキャラやラノベを読んでいるという自分に萌える日々を二年ほど過ごし、その後もともと何に対しても反逆精神に旺盛な中二だった私は「アンチラノベ!! 純文学こそ小説だ!!」と中二病まるだしで一人孤立に走り、よくも分りもしない海外文学などを適当に読んで、これを読んでいる私は高尚な存在なのだと、やはり自分に萌えたりしていた。とりあえず、そういう経験を通して世間に出て趣味は読書です。○○という本が好きです、と言える程度にはなり、朝の通勤や遊びに行く時に必ず本を持ち歩くようになった。
さて、そしてつい二日三日前の話、通勤用の本を朝の一瞬の瞬きに見出そうしていた時、それが目に止まった。「こころ」である。なぜ、家にそれがあったのか。そう、それはずいぶん前に妹が学校の授業に使うために買った中古本を私が何気なしに売りに行かせず、部屋の片隅に投げていたのである。学生にしても会社員にしても、朝というのは通常の三倍以上の密度で動作をこなし、しかしそれ以上の速度で時間が経過するまさに刹那。私はこれは何かの運命かと「こころ」に手を伸ばし、鞄に入れたのであった。
と、ここまで第一章「こころ」と私を長々とクドクドと語ったが、総じて何が言いたいかというと、これが以外、面白かったんだよ、というただそれだけの話。逆に最後を知っているからこそ、一章の先生と私の先生の言葉や動作が一々、分ってしまって深い、面白い。本当ただそれだけの事。これ以上に「こころ」の面白さを語っても、それは上のような出会い方をした自分自身にしか共感できない話だろうし、止めにしようと思う。それじゃなんでここまでグダグダと長文を描き続けたかという話になるわけだが、これは絵を描くのもなにもやる気無いこんな夜、今こうして文を打ち続けることでこのあと始まるディラララ、如いてはその後に続くABまでの暇つぶしというわけである。
てな、訳でデュラララまでが始まるのでここらでドロン。
誰にも読まれないことを望むために産み落とされた「こころを読む」という名の駄文。
そして月日は流れ、本を読まなかった私は高校で知り合った友人の影響でラノベという世界を知り、青春そっちのけで読書にハマる日々、否、読書を通してキャラやラノベを読んでいるという自分に萌える日々を二年ほど過ごし、その後もともと何に対しても反逆精神に旺盛な中二だった私は「アンチラノベ!! 純文学こそ小説だ!!」と中二病まるだしで一人孤立に走り、よくも分りもしない海外文学などを適当に読んで、これを読んでいる私は高尚な存在なのだと、やはり自分に萌えたりしていた。とりあえず、そういう経験を通して世間に出て趣味は読書です。○○という本が好きです、と言える程度にはなり、朝の通勤や遊びに行く時に必ず本を持ち歩くようになった。
さて、そしてつい二日三日前の話、通勤用の本を朝の一瞬の瞬きに見出そうしていた時、それが目に止まった。「こころ」である。なぜ、家にそれがあったのか。そう、それはずいぶん前に妹が学校の授業に使うために買った中古本を私が何気なしに売りに行かせず、部屋の片隅に投げていたのである。学生にしても会社員にしても、朝というのは通常の三倍以上の密度で動作をこなし、しかしそれ以上の速度で時間が経過するまさに刹那。私はこれは何かの運命かと「こころ」に手を伸ばし、鞄に入れたのであった。
と、ここまで第一章「こころ」と私を長々とクドクドと語ったが、総じて何が言いたいかというと、これが以外、面白かったんだよ、というただそれだけの話。逆に最後を知っているからこそ、一章の先生と私の先生の言葉や動作が一々、分ってしまって深い、面白い。本当ただそれだけの事。これ以上に「こころ」の面白さを語っても、それは上のような出会い方をした自分自身にしか共感できない話だろうし、止めにしようと思う。それじゃなんでここまでグダグダと長文を描き続けたかという話になるわけだが、これは絵を描くのもなにもやる気無いこんな夜、今こうして文を打ち続けることでこのあと始まるディラララ、如いてはその後に続くABまでの暇つぶしというわけである。
てな、訳でデュラララまでが始まるのでここらでドロン。
誰にも読まれないことを望むために産み落とされた「こころを読む」という名の駄文。
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